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義農作兵衛の墓

印刷ページ表示 更新日:2018年10月10日更新

義農作兵衛の墓の画像 義農作兵衛=(1688~1732)作兵衛は、松山藩筒井村(現松前町筒井)の貧しい農家に生まれました。当時は儒教思想に基づく家族制度と、士農工商という厳しい身分制度が確立された封建時代でした。作兵衛は、幼い頃から農業に励みました。

大儀に死す

 享保の大飢饉のとき、人々は食べるものもなく、餓死者が続出しました。こうした中で、作兵衛は、毎日休むことなく耕作に精励していましたが、遂に飢えのため田んぼに昏倒して大儀に死すの画像しまいました。近隣の者が「命に変えられぬでの、その麦種を食べてはどうか。」と勧めましたが、作兵衛は「農は国の基、種子は農の本。一粒の種子が来年には百粒も千粒にもなる。僅かの日生きる自分が食してしまって、どうして来年の種子ができるか。身を犠牲にして幾百人の命を救うことができたら私の本望である。」と、 麦種一粒食することなく後世に残し、大儀に死にました。

受け継がれる義農精神

 安永6年、尊い彼の死に対し、藩主松平定静は碑を建立、明治14年には義農神社、そして明治45年には頌徳碑が建立されました。このように、義農作兵衛の精神は「義農精神」として今日も脈々と受け継がれています。

義農太鼓

義農太鼓の画像 社会のため、人のために尽くすという義農精神を太鼓の心として、豊かでたくましい松前人をめざし、松前小学校児童の手から手へと継承されています。(昭和56年発足)

義農作兵衛頌徳碑

 大正2年、頌徳碑建立と義農精神発揚のため組織された「義農会」により建立されました。見返り石には、元内務大臣、平田東助の詩が刻まれています。