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松前城跡
(昭和44年町史跡指定)
始まりは平安時代
松前城の起源は明らかではありませんが、平安時代初期すでにこの地に定善寺(性尋寺)(今の金蓮寺)があり、軍事交通の要衝として、境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれています。松前城の文字が初めて文献に現れるのは、建武3年(1336)祝安親軍忠状です。大山積神社文書によると、南北朝時代、南朝方合田弥四郎貞遠のたてこもる松前城を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとあります。天正16年(1588)、粟野木工頭秀用が松前城主となりましたが、豊臣秀次事件に連座除封されました。文禄4年(1595)、加藤嘉明が淡路志智城(現兵庫県西淡町)より、6万石をもって松前城に入り、金蓮寺を現在地に移転しました。翌慶長元年(1596)、嘉明は足立重信らに命じ、伊予川(現重信川)を改修して、松前港の大拡張を行いました。
要害堅固の城
松前城の規模は明確ではないが、地の利を得た自然の要害堅固の城でした。
慶長2年(1597)には嘉明は松前城を根拠地として、2400余名の兵を率いて朝鮮に出兵しました。慶長5年(1600)関ケ原の戦いに、嘉明は東軍に従って出征しましたが、留守に毛利勢3000が三津港に上陸、河野氏の残党と松前城をうかがいましたが、佃十成らの勇戦により撃退しました。関ケ原の戦いの功により20万石となった嘉明は、慶長8年(1603)松山城に移り、松前城は廃城となりました。天保以降ニの丸を耕地化し、余り土を盛った所が現松前城跡です。明治42年(1909)耕地整理により、様相は一変し、大正11年(1922)11月23日龍燈の松が大風で倒壊して、松前城を偲ぶものがなくなりました。
大正14年(1925)10月記念碑を建てました。