ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 組織でさがす > 社会教育課 > 鷲野南村塾「橙黄園」

本文

鷲野南村塾「橙黄園」

印刷ページ表示 更新日:2018年10月10日更新

南村塾跡
(南村塾跡)

秀才!蕗太郎少年

 鷲野蕗太郎(南村)は、文化2年(1805)7月25日、南黒田村庄屋の長男として生まれました。幼時より好学心強く、博学強記、秀才のほまれが高かったそうです。蕗太郎は大阪に出て、篠崎小竹の梅花社に入りました。以来、京阪の儒者と親交を結び、切磋勉励、学徳大いに進み梅花社塾頭になり、さらにに小竹の養嗣子となって、塾の経営を依頼されましたが、父病弱のため帰郷し、庄屋職をつぎました。

伊予郡内最高の私塾「燈黄園」

 幕末動乱期の困難な庄屋職に精励しつつ、書斎を「雪月楼」と名づけ、京阪版元より直接万巻の書籍を購入して、読書・作詩に没頭し、また、漢学私塾「燈黄園」を開設して青少年の教育に尽しました。燈黄園の教育内容は、きわめて高かったようですが、南村の学殖と人格を慕って入門者が相つぎ、伊予郡内最高の私塾と称賛されました。

南村の多彩な交流

 南村の交友は広く、中央・地方を問わず燈黄園を訪ねたそうです。特に、頼山陽一家とは親しく、山陽は「日本外史」の初稿本を直ちに南村に贈っています。多忙をきわめる南村の心に慰めを与える人は、竹馬の友、郡中の陶惟貞でした。惟貞は、膨大な著書の中に、数多くの南村の漢詩を掲載しています。明治10年(1877)7月7日、南村は72歳で没しましたが、燈黄園教育が地方学問及び、教育に寄与した役割はきわめて大きいと言えるでしょう。明治34年(1901)には門弟らが集い、頌徳碑を郡中五色浜に建立しました。

頼山陽
(日本外史:頼山陽)