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北伊予の伝承-12 (平成26年3月) 戦後の学校とくらし 各地区の家並みの移り変わり 出作

印刷ページ表示 更新日:2024年9月24日更新

2 「北伊予の幹線道路沿いの家並みの移り変わり」  

二 各地区の家並みの移り変わり

(三) 出作

1 地区の概況

 出作(しゅっさく)は、中川原、徳丸、神崎、伊予市宮ノ下に囲まれ、JR予讃線北伊予駅の東及び一部線路の西にわたる地区である。

 竹やぶや雑木林でおおわれた昼なお暗い山王原に、昭和五(一九三〇)年、国鉄(現在のJR)が開通し北伊予駅が開設された。交通の便がよくなると人々の往来が多くなり、駅周辺は開発され、出作の様相は一変した。駅前広場から南の北伊予踏切方面にかけ、次々と新しい店が開業していった。

 12本の県道交差点(松山市生協きたいよ店前)

 旧街道は、ほぼ出作の中央を巾七尺八寸(約二・四メートル)でジグザグに通っていた(地図参照)。北伊予踏み切りの三叉路(さんさろ)から松山生協北伊予店の北の道へ入り、郵便局の裏を抜け、突き当たりを東へ折れ、更に突き当たりを左折して北へ抜けて中川原方面へ向かい県道に合流した。今も生活道として残っている。

 旧街道(往還)の東側をほぼ平行して走っている主要地方道「松山伊予線」の道路整備事業の拡張工事では、二名(ふたな)神社と吉祥(きっしょう)寺の県道側の巾約六メートルの土地が立ち退(の)きとなった。二名神社は平成二(一九九〇)年、西入り口の大鳥居を東へ曳(ひ)いたが、吉祥寺は建物の老朽化(ろうきゅうか)が目立つために取り壊しとなり、平成四(一九九二)年に新築された。それに伴い公民館は取り壊され、平成六(一九九四)年に集会所として現在地に新築された。

 道路整備事業の延長工事とバイパス工事は吉祥寺南の出作交差点から一般県道「八倉松前線」へ延び、更に製材所の東を通り伊予市との境まで一部を除いてほぼ二車線で開通した。開通当初は北伊予交差点(正式には松山生協北伊予店前交差点)で交通事故が多発したため、東古泉の国道五六号の交差点に次いで北伊予で二番目に信号機が設置された。

 歯科医院の前から北伊予交差点に移動していた半鐘(はんしょう)台のある出作消防団詰所と北伊予駐在所は、交差点整備工事により、共に平成元(一九八九)年に現在地(出作交差点)に移転した。

2 家並みの移り変わり

 昭和一八(一九四三)年に北伊予郵便局開業。昭和二五(一九五〇)年に伊予鉄道バスが運行を始めた。その後のハイヤーの駐在所の設置、昭和四七(一九七三)年に北伊予農協の移設、組合マーケットの開業などにより業種も増えて、駅前広場から神崎に至る北伊予農協前の通りは出作の中心地となっていった(地図参照)。しかし、新しいバイパス北伊予交差点の脇に昭和五八(一九八三)年Aコープ(現在は松山生協)ができると人や車の流れが大きく変わった。それまで賑(にぎ)わっていた多くの商店では買い物客が減少し活気がなくなった。生活様式の変化や店主の高齢化、後継者不足もあって閉店が相次ぎ、現在は歯科医院以外は民家か空家(あきや)となっている。一方、バイパス側には商店や民家が増えた(地図参照)。地の利もあってか、昭和三〇年代には一三〇世帯、五八〇人だったが、平成二五年には三三三世帯、七八七人と大幅に増えた。

 水口憲三さん(昭和一二生)に話を聞いた。

 農協前の通りに子どもに人気のあったお菓子屋さん、通称煎(せん)餅(べい)屋(や)さんがあった。それはおいしい煎餅だった。店の入り口近くで店主が一枚一枚手焼きしていた。人気はのり・ピーナッツ・そら豆等の入ったのや卵せんべいだった。昭和の終わり頃でも遠方の人から「今でも買えますか。」と尋ねられたこともあった。一代で終わって残念だ。歯科医院の南隣に製粉所があり、近くの農家では収穫期に小麦をまとめて店へ預けておき、そうめんやうどんを食べたい時に受け取りに行った。雨が降り、農家に時間ができると、よくうどんを食べさせてくれたものだ。店に行くとうどんを打ってくれた。その工程が面白く、切断されて出てくる時は感動した。農協の向かいの金物屋(鍛冶(かじ)屋)さんでは二人が向かいあって絶妙なリズムでハンマーを打ち下  ろしていて、火花の散るのをじっと眺(なが)めていたものだ。また金物屋さんの隣には、親子二代の畳(たたみ)屋さんがあり、家の中を覗(のぞ)くとイグサの匂いがプーンとして好きだった。材料から製品にする手際のよさに驚いた。雑貨屋さん、キャンデー屋さん、クリー二ング屋さん、散髪屋さん、薬屋さん、他にもいろいろな店があって賑やかだった。

 山本勅子さん(昭和八生)は、次のように話す。

 出作には大きい広場がなかったために駅前の広場を大きいイベントにはよく使いました。春には桜の下で花見をしました。男性は酒を酌(く)み交わし、女性は弁当を拡げて、世間話に花が咲きました。夏には盆踊りが開かれ、中央に櫓(やぐら)を組み、何重にも輪ができて、それはそれは盛大でした。夜店もたくさん出ていました。秋祭りには大人神輿(みこし)が出て神崎の神輿と出会うと鉢(はち)合わせが始まり、出作が勝つように応援に力が入りました。

 2駅前広場の盆踊り(昭和30年代 稲荷正恵さん提供)

 松島保さん(昭和六生)は、「松山の病院へ自転車で通ったが、砂利道で風の強い日は土埃(つちぼこり)がもうもうと揚がり、バスの後ろなどはとても付いていけなかった。雨の日は泥水で服が汚れて大変困った。道がデコボコになると、背の高いブルドーザーが中央が高くなるように地面を削りならした。」と言う。

 現在の北伊予郵便局長の野村雅章さん(昭和四〇生)は、昭和一八(一九四三)年開設の北伊予郵便局は、北伊予地区の郵便物の集配業務や電信電話業務を行っていました。昭和三〇年頃は車ではなく徒歩か自転車で、風の強い日や雨の日は砂利道のために苦労したと聞いています。」と言っている。

 4昭和30年代の北伊予郵便局(野村雅章さん提供)

 3現在の北伊予郵便局と北伊予駅前バス停の伊予鉄バス


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