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発行: 〒791-3161 愛媛県伊予郡松前町大字神崎210番地
現松前町の中部、東は鶴吉、西は東古泉、北は恵久美、南は大溝に接し、大溝との境界に長尾谷川が流れている。
永田の幹線道路は、地区内を東西に走る一般県道「八倉松前線」であるが、鎮守(ちんじゅ)神社のある付近だけは、現在の県道より北の鎮守神社の境内に沿ったところに旧道があって、松前方面や北伊予の東方面から行き来する人の通り道となっていたが、旧道より少し南側に県道が新設され、昭和四年に県道「原町松前線」として竣工している。現在永田にも昔の八尺道が残り、一部はバスも通っていた。県道沿いに県道改修寄付の石碑が建っている。これは県道改修に際し、昭和二年二月、当時の金額で「中村久藏氏金壱千圓也、村民七六名九百七拾六十圓也」を寄付したことを記す碑である。
県道八倉松前線(左)と旧県道(右)の合流点
2本の県道が交差する永田交差点
永田の幹線道路(一般県道「八倉松前線」)の昭和三○年頃の家並みの移り変わりについて、小笠原盈喜(みつよし)さん(昭和九生)に聞いた。
永田は、七つの集落(上組(かみぐみ)、樋ノ口(ひのくち)、本村(ほんむら)、天神前(てんじんまえ)、向江(むかえ)、西組(にしぐみ)、大下(おおしも))で構成されていた。幹線道路である一般県道「八倉松前線」沿いの集落は、上組と天神前の二つだけで、その他の五つの集落は、県道より北に細い道(町道)沿いに点在していた。県道と大溝、横田から岡田方面に通じる南北の町道(現一般県道「砥部伊予松山線」)とが交差しており、そこに伊予鉄道の永田バス停留所があった。停留所前に切手、ハガキのほか学用品や日用品を扱っている雑貨店があった。道路を挟んで西側にタバコ店があった。タバコのほか食料品、日用雑貨なども販売しており、特に夏の時期は、ラムネなどの飲料やアイスキャンディを買う人でにぎわっていた。その後、停留所前の雑貨店もバス路線の廃止や道路拡張に伴い移転し、平成一○年頃店を閉じた。タバコ店もタバコの自動販売機の設置により平成二○年頃店を閉じた。
停留所から東へ数十メートル行ったところ県道の北側に農協穀物倉庫と精米所があり、米・麦の出荷時には、北伊予下(しも)部落(横田、大溝、永田、東古泉)の農家の人であふれていた。その倉庫の西側に隣接して精米所があり、大勢の人が利用していた。小麦を持って行けば、うどんを打ってくれた。精米所は、平成一○年頃施設の老朽化(ろうきゅうか)とコイン精米機等の普及で廃止、取り壊された。
交差点から西に一〇〇メートルほど行くと、右側に鎮守神社と華蔵庵(けいぞうあん)跡がある。鎮守神社境内のほぼ中央部に『小富士松(こふじまつ)』という根回り四~五メートルの大きな松があったが、終戦前の昭和一九年に台風と虫害により枯死した。
枯死前の小富士松
鎮守神社本殿と舞殿
「小富士松」について、福嶋正利著『子規の良友 武市庫太』によると、「この老松は永田村岩鋪(いわしき)天満宮の境内の中央にあって、通称小富士松と呼んでいた。近江の国の唐崎の松によくにて、これに劣らない立派な松で四方に枝をはり、下部の周囲五メートル余(私ども子どもの頃四人で手をつないでかかえていた)東西南北の広がりは 数十メートル、道路の上を渡り南側の人家の上まで枝をのばし、石柱十数本、木柱六十本余で支えていた。惜しいことに昭和十九年の台風と続いての虫害によって枯死、しばらく根株は存置していたが、昭和二十八年十月二十三日、撤去した。(原文のまま)。」との記述がある。
小富士松が撤去された後の境内は、社殿のほか一千平方メートルほどの広さがあるため、普段は小学生の通学の際の集合場所として、またブランコ、滑り台、鉄棒等の遊具もあることから子どもたちの遊び場として、夏の天神祭の演芸大会の舞台にもなっていた。このように鎮守神社は、永田住民の日々の生活と密接に関係している場所となっていた。なお、本殿前の舞殿の壁面には、明治初期に作成されたと思われる「永田村絵図」が掲げられている。
昭和四○年代に入ると、永田においても高度経済成長の影響を受け、県道沿いに住宅建設が進み、上組の東側に住宅団地ができ銭塚(ぜんづか)組となった。また天神前については、県道より北側に家並みがあったが、昭和五○年代後半からの県道の拡幅工事と相まって分家等が進み、県道の南側にも住宅が建設され南天神組となり、旧の天神前は北天神組となった。現在、永田は九つの集落(銭塚、上組、樋ノ口、本村、北天神、南天神、向江、西組、大下)で構成され、戸数は百三○余戸となった。
農協の穀物倉庫は、穀物の貯蔵方法の変更(カントリーエレベーターの出現)でその必要性がなくなり、平成二○年に取り壊され、現在は農機センターや駐車場となっている。
農協の穀物倉庫があった場所の県道の南側は、昭和四○年代の後半にガソリンスタンドや農協の出張所及び現在の生協マートが建設され現在に至っている。県道の改修とともに県道より北側の各集落との連絡道路も整備され、戸数は各集落とも増加しているものの新たな集落とはなっていない。
昭和三○年頃の永田は、米・麦中心の農業を生業(なりわい)としている家庭がほとんどであったが、現在では兼業農家が多く、専業農家はごくわずかとなっている。
近年県道沿いに大きな食品加工工場が新設され、また歯科医院が開業し、純農村地区であった永田の幹線道路沿いの風景が変貌(へんぼう)している。
昭和30年頃の家並み
平成25年の家並み
PDF版ダウンロード H26-北伊予の傳承12 [PDFファイル/9.43MB]